Cast introduction
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相野 愛 ~Ai Aino~
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貪欲に夢を追い続け、西武ライオンズ二軍のアナウンサーの座を射止めたのが22歳のとき。
以来、毎年『今季が最後』だというつもりで、緊張感を持ちながら現場に臨み続けているといいます。
今や、NPBのアナウンサー界を担う有望株です。
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―埼玉西武ライオンズ二軍の場内アナウンサーとなって2021年度のシーズンで8年目を迎えた相野さん。
「はじめて試合でアナウンスした日のことはあまりよく覚えていないのです。
よく緊張し過ぎて頭が真っ白で…なんて言いますが、私の場合は逆で、全く緊張しなかった、ということだけを覚えています。『藤生先生に教わったことをやるだけだ』って思って、妙に落ち着いていました。
緊張するといえば、今の方がよほど緊張します。中堅の域に入ってきたということもあって、自分自身により完璧を求めるからです。噛んじゃいけない、自分のアナウンスが試合を止めることはあってはならない、とか。未だにまだまだだと感じていますし、本当、毎試合、もの凄く緊張しています」
緊張するといえば、今の方がよほど緊張します。中堅の域に入ってきたということもあって、自分自身により完璧を求めるからです。噛んじゃいけない、自分のアナウンスが試合を止めることはあってはならない、とか。未だにまだまだだと感じていますし、本当、毎試合、もの凄く緊張しています」
―小さなころから、声の仕事に興味があったそう。一方で、ご両親が大の野球好きだったことから、いつしか自身も野球が好きになっていました。声の仕事と野球とか結びついたのは、高校生のときでした。
「はじめは声優に憧れていました。中学生の時に『声優になりたい』と母に伝えましたが、厳しい世界だということで認めてもらえず諦めました。
地元、福岡の高校へ進学後、野球部マネージャーになって試合のアナウンスをしたときのことです。初めてマイクの前で言葉を発した瞬間、『これだ!』って、ビビッときたんです。その時から『プロ野球の場内アナウンサーになりたい! ううん、なる!』と、決めました」
―せっかくの思い描いた夢なのに、回り道をすることに。挫折を経験するも、決して諦めませんでした。
「当時は場内アナウンサーになれる方法が全くわからなくて。どこを調べてもそんな情報が載ってない。両親を説得することもできず、アナウンサーへの道を諦め、母が希望する美容師になるために専門学校へ進学しました。通い始めてすぐ、私には向いてないことがわかったのですが、両親に悪くて、美容師の国家資格を取得し卒業、奈良県内の美容室へ就職しました。
職場の同期はみな、希望の職業に就けたとあって、やる気満々。それに比べて私は、仕方なく仕事しているので、もう辛くて、辛くて。美容師は、キツイ仕事ですから、生半可じゃできません。辛いし、本当にやっていけるのかと悶々としていたある日、『私はいったい、何してるんだろう?』という思いが突然襲ってきて。
結局、一ヵ月で退職、福岡に帰りました。店長に、『プロ野球の場内アナウンサーになるので辞めます!』って啖呵切って。 『本当になれるの?』って、不思議がられましたけど(笑)」
―こうして故郷、福岡へ戻りましたが、一年後には兵庫県へ移り住み、さらに一年後には、西武ライオンズ球団のアナウンサーに決まるという、まさに人生の転換期を迎えます。
「帰ってすぐ、当時のヤフードーム(現ペイペイドーム)で、総合受付やドームツアーのインフォメーション係のアルバイトを始めました。球団に近い場所にいれば、アナウンサーになれるかもしれないと思ったからです。
福岡からベースボールプランニングアカデミーに通っていたのですが、藤生先生に『こちらへ来たら』と言われて、即、先生のいる兵庫県へ行きました。もちろん、行ったからといってアナウンサーになれる保障はありません。でも、夢を諦めていた時の辛さを思えば、迷いませんでした。決起迫るものがあったのでしょうか、福岡を発つとき、両親が『やっぱり、行くんやね』と言われた言葉が今でも忘れられませんね」
福岡からベースボールプランニングアカデミーに通っていたのですが、藤生先生に『こちらへ来たら』と言われて、即、先生のいる兵庫県へ行きました。もちろん、行ったからといってアナウンサーになれる保障はありません。でも、夢を諦めていた時の辛さを思えば、迷いませんでした。決起迫るものがあったのでしょうか、福岡を発つとき、両親が『やっぱり、行くんやね』と言われた言葉が今でも忘れられませんね」
「運良く、兵庫に移って一年後の2014年の3月初旬に、西武ライオンズからアナウンス募集が出ました。なんでも、前任者が急に退職するとのことでした。NPB球団の場合、基本的に、現職者が辞める以外、追加募集はありません。滅多にないチャンスです。飛びつくように応募し、一次、二次試験を経て、合格しました。スコアが書ける、野球のルールを理解している、などの基礎がちゃんとあったのがよかったようです。アカデミーのおかげです。両親は、もの凄く喜んでくれました。本当は内に秘めておくことなのでしょうが、生では聞かせてあげられない分、福岡へ届け!と思いながらアナウンスしています。
合格の要因は、もうひとつ、対応の早さもあったみたいです。『すぐこっち(埼玉)へ来られる?』と、聞かれ『そのつもりで、今、所沢に借りる部屋を探しています』と答えたので。実際は、はじめの一ヵ月間は千葉に住む叔母の家から通っていました(笑)」
「二軍専属アナウンサーは、私ひとりです。現場から、アナウンスの出来を指摘されることは、まず、ありません。逆に言えば、自分に厳しくないと、向上できないのです。ですから、試合後、審判の方に、アナウンスのタイミングとかスピードなど、気になったところを確認するようにしています。少しでも、聞きやすい、わかりやすいアナウンスを心掛けているので。そして、『相野のアナウンスが好き』と思ってくれる観客を、一人でも増やしていきたいと思っています。
選手とは違い、場内アナウンサーに一軍も二軍もないと思っています。与えられた場所で、100%の力を出してアナウンスすることに何ら変わりはありません。誇りをもって臨んでいます」
―場内アナウンサーを目指す人たちにとって憧れの場所、NPB球団で現役を続ける相野さんが、同じ夢を持つ人たちへ、メッセージをお願いしました。
「なれるかなれないかは、わかりません。でも、迷っているのなら進むべきです。
いつか…と、夢を後回しにしても、思いが付いて回るだけ。だったら、今やるべきです。
生活できるか否かという質問もよく受けますが、何をとるかだと思います。好きな事? 生活? そこはご自身でしっかり考えて。私は、好きな事をとった結果、今があります」
生活できるか否かという質問もよく受けますが、何をとるかだと思います。好きな事? 生活? そこはご自身でしっかり考えて。私は、好きな事をとった結果、今があります」
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相野さんから、アナウンス愛と仕事への誇りが、ひしひしと伝わってきました。
行動力やこだわりからがそれを証明しています。
まだ30代に突入したばかり、これからのアナウンサー界を引っ張って行ってくれることでしょう。